白んだ空、胸は明かず

Twitter:@siramune

バーチャルな差別撤廃

巷では某感動系超長尺番組の話題で盛り上がっていますが、

その番組を全く見ていない人間が私です。

まあ、見たくない理由は色々あるので省略します。

 

その番組のコンセプトはおそらく今年も、身体的弱者への理解の発信と差別撤廃だと思われます。

 

でも、私はこの世界から差別をゼロにすることは不可能だと考えています。

そういう人がいることを理解することはできる。

でも差別自体をなくすことはできないと思う。

 

「差別する」を「本来同等の他者を下位な存在と見做す」と言い換えるとします。

表面上のなぞっただけの理解をすれば「虐げたり」、「嘲笑する」ような「差別」は無くすことができると思います。

もちろん、助け合う精神は大切なことです。

 

しかし、某番組のように、「障がい者や病人を表舞台に出させて感動を生み出す装置にする」という「差別」は単純な理解だけではなくなりません。

「憐れむ」や「可哀そう」という感情の奥底には、「対象を下位の存在と見做す」という「差別」が含まれています。

 

かつての私がそうでした。

あの番組を見て、感動してしまう自分がいる。

(そういう構成にしているせいもあるが、)やはり差別してしまう。

だからテレビで受動的に見るような理解だけでは差別はなくせない。

 

本当に必要な理解は、障がい者も難病を抱えている人も健常者と何ら変わりないという理解なんだと思っています。

だから、障がい者や難病人が健常者と同じようなことをしていても、奇異の眼で見て、感動する必要はないのではないか。

そう考えています。

 

しかし、たぶんこれは現実的なものではない。

人間の脳はそんなにうまくできていないから。

障がい者や病人の視覚に与えるショックは健常者の想像を超えてくるから。

障がい者や難病人が健常者と同じだって、”全”健常者にはきっと理解できない。

どうしても身体的弱者である彼らを特別扱いして、憐れんでしまう。

だから、きっと、差別撤廃はバーチャルなものでしかありえない。

 

 

でもこれはあくまで現実世界(リアル)でのお話です。

ネット上なら違う。

ネットという、「文字のみ」で意思疎通でき、視覚的なショックのない世界なら、健常者が身体的弱者を奇異の眼で見ることはありません。

だから私は、差別のないユートピアがあるとすればそれはネット上にあると考えています。

 

ネットというバーチャルな世界のみに。