涼宮ハルヒは他者の視点を自らの内に取り入れて成長していく
各所で「暴力女」だとか「我儘が過ぎる」だとかいろいろと言われるハルヒですが、彼女がそんな性格なのには理由があるのです。ということを書こうと思います。
まず、小学生時代です。この頃はおそらく天真爛漫な可愛らしい少女だったのだと思います。なぜなら、「自分のクラスは世界のどこよりも面白い人間が集まっている」と思っていましたし、「家族といるのも楽しかった」のですから。さらに、佐々木はハルヒのことを「太陽のよう」と形容し、「憧れて」いたのです。世間一般的に言って、憧れられる人というのは決して排他的ではないし、ましてや暴力的でもありません。以上のことから小学生時代のハルヒは優しくお転婆な少女であるのだろうと考察できます。
しかし、そんな彼女に転機が訪れます。それは「憂鬱」にて語られてた野球観戦です。
そこで見た膨大な人の数に圧倒され、自分の生活は「日本全国の人間から見たら普通の出来事でしかない」と考えるようになり、「つまらなくなった」と感じるようになります。
ハルヒは若干11,12歳にしてアイデンティティクライシスに見舞われます。原因は今まで生きてきた狭い”自己の世界”と見たこともなく広い”他者の世界”を相対化したことです。それにより今まで生きてきた世界像は崩壊し、自分自身の価値は喪失しました。それにともない、彼女は圧倒的な孤独感に苛まされるようになります。その結果として、余裕をなくしてしまった彼女は、よく言われるような「暴力性」を孕むようになっていったのだと考えられます。(それが許されるかどうかは別として・・・)
そして中学生になったハルヒは失ってしまったアイデンティティの獲得に動き出そうとします。それが校庭のグラウンドに落書きした「わたしはここにいる」のメッセージであり、「4年前の情報フレア」なのです。彼女は自分の存在を世界に訴えかけ、世界を改変し自分という存在の価値を世界に見出そうとします。(実際には情報フレアの直接的原因は別だと考えられます)
本来ならば、自己のアイデンティティの獲得のためには、自分自身が周囲の環境に順応していく姿勢が必要なんです。
しかしハルヒは自身のその無自覚な世界改変能力により、環境を自分に順応させる形でアイデンティティの獲得を目指します。心の奥底ではその環境に自分も認めてくれる存在は「いるはずがない」という幻想を抱きながら…。
つまり彼女はアイデンティティの喪失とともに、他者の排斥という心理状態に陥ってしまったがゆえにアイデンティティを自らの内に眠らせてしまうしかなくなってしまったのです。
(sleeping beauty)
ここでもう一つ注目しておきたいことはハルヒはあくまで”自己以外”に自己のアイデンティティを見つけてもらおうと動き出したのみで、自分自身でアイデンティティを探し求めたりはしません。つまり、この時点でのハルヒは”積極的な受動性”を備えていたと言えます。
そんな無自覚の袋小路に陥っていたハルヒはその精神状態のまま高校へ進学します。
このときの重要なターニングポイントはもちろん「キョンとの出会い」です。
彼がなぜハルヒにとって例外な存在であるかの説明は今は省略しますが、とにかくハルヒは彼にとても大きな興味を抱くようになります。
これによりハルヒは”能動的”にキョンの気を引くために”能動的”にキョンの気持ちを知ろうと努力し始めます。この時点からハルヒは自己以外の”他者”の視点を自らの内に無意識のうちに取り込むようになり、自らの暴力性を、キョンに嫌われたくないという一心で、克服しようとし始めます。
さらにハルヒは今後、「雪山症候群」や「分裂」において長門の心配をするようになっています。「他者の心配をすることができる=他者の心に寄り添える」ということですから、ここでも他者の視点を自己に取り入れているのです。
これらにより、古泉の言によれば、閉鎖空間の発生頻度は減少し、ハルヒの精神状態は落ち着いていきます。
ハルヒは自己を認めてくれるキョンに認めてもらいたいがために、彼女が唯一の存在でいられるSOS団を大切にしたいがために、無意識のうちに他者の視点で物事を考えられるよう成長していくのです。
自分を他者に認めて欲しければ、まず他者の視点に立ち、他者を認めていく姿勢が必要なんですよね…。