「キョン=異世界人」に関する3つの説
またしてもありふれた話題なんですが、書きたいと思います。
私の知りうる限りでは、キョン=異世界人説って大きく分けて2つ存在しています。
1つは「キョン=真の神(創造主)」説に基づくものです。
「涼宮ハルヒの憂鬱」の世界はあまりにもキョンにとって都合が良すぎることや、四年前の七夕でキョンが校庭に落書きをしたことがその主な根拠となっているようです。
まぁ根拠自体は良いのですが、この説を採ってしまうとこの作品がいきなりホラーと化しますよね。今まで私たちが楽しんでいたハルヒの世界が冴えない主人公の妄想の産物だったなんて、夢オチよりも酷い気がしてなりません。
それに、原作者が暗に示している「ハッピーエンド」には程遠くなってしまいます…。
そして2つ目の説です。
これは個人的に支持したいですね。
「キョン=読者」説です。
「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズは一貫してキョンの視点でしか語られません。(この手法が一定の方からかなり高い評価を与えられていたりもします)
キョンという語り部の視点によってしかこの作品は描かれないがゆえに、私たち読者は自然とキョンに移入してしまいます。逆に、キョンを介してハルヒを見ることはできないんですよね。必ずキョンがインターフェースとなっています。
少し強引ではありますが、これにより「キョン=読者」という図式が成り立つこととなります。
キョンはストーリー上では異世界人としての役割を与えられてはいませんが、(2次元世界からしたら)異世界人である我々と一体化するというシステム上の役割が与えられていたということです。
さて、考えられる説がもう1つあります。
これは前回書いた「ハルヒにとってなぜキョンは例外なのか?」とも繋がっています。
まず、ハルヒについておさらいしますね。
キョンと出会う前までのハルヒは自分が見ている世界は「つまらない」と形容していました。
その原因は前回書いたとおりです。
しかし、キョンと出会ったハルヒはキョンのことをどう思ったのでしょう?
それは「憂鬱」でSOS団を結成するまでの流れを見ればわかりますが、ハルヒはキョンのことを完全に意識して行動していきます。
「どうしたらキョンと一緒にいられるか?」
そのことで頭がいっぱいです。
だって、単に容姿や性格ではなく日替わりの髪型を指摘したキョンは、今までつまらない男(容姿だけに魅かれた人間)に言い寄られていたハルヒにとって「例外的存在」だったのですから。(もちろんキョンはハルヒの容姿に魅かれていましたが)
つまり、キョンはハルヒの思っていたつまらない現実世界の外側にいる(=つまらなくない、面白い)存在だという意味で、異世界人なのです。
こうやって考えてみると、「憂鬱」がどれほどよくできたラノベであるかが分かります。
「東中出身、涼宮ハルヒ。
ただの人間には興味ありません。
この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、
あたしのところに来なさい。以上。」
自己紹介時にこう言い放ったハルヒはSOS団に古泉を迎え入れた時点で、「宇宙人、未来人、異世界人、超能力」に知らずのうちに囲まれていたことになるのです。
しかもキョンも含めて、皆がハルヒにアプローチしていくような形で。
ハルヒの願望はまたしても無意識のうちに実現していたのですね。
でもつくづく思うのは、やはり「ハルヒはかわいそうだな」ということです。
自分の願望はたしかに叶えられているのにも関わらず、自分の能力に対して無知で、素直になれない性格が災いして自分の気持ちにさえ無知でいることしかできないのですから。
だから仮に私が「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズに何らかの結末を与えるのであれば、せめてハルヒが自分の気持ちにだけでも素直になれるようにしたいですね。
そうなることでようやく、ハルヒの中に眠っている(sleeping)健気な想い(beauty)が目覚めるのですから。
涼宮ハルヒは他者の視点を自らの内に取り入れて成長していく
各所で「暴力女」だとか「我儘が過ぎる」だとかいろいろと言われるハルヒですが、彼女がそんな性格なのには理由があるのです。ということを書こうと思います。
まず、小学生時代です。この頃はおそらく天真爛漫な可愛らしい少女だったのだと思います。なぜなら、「自分のクラスは世界のどこよりも面白い人間が集まっている」と思っていましたし、「家族といるのも楽しかった」のですから。さらに、佐々木はハルヒのことを「太陽のよう」と形容し、「憧れて」いたのです。世間一般的に言って、憧れられる人というのは決して排他的ではないし、ましてや暴力的でもありません。以上のことから小学生時代のハルヒは優しくお転婆な少女であるのだろうと考察できます。
しかし、そんな彼女に転機が訪れます。それは「憂鬱」にて語られてた野球観戦です。
そこで見た膨大な人の数に圧倒され、自分の生活は「日本全国の人間から見たら普通の出来事でしかない」と考えるようになり、「つまらなくなった」と感じるようになります。
ハルヒは若干11,12歳にしてアイデンティティクライシスに見舞われます。原因は今まで生きてきた狭い”自己の世界”と見たこともなく広い”他者の世界”を相対化したことです。それにより今まで生きてきた世界像は崩壊し、自分自身の価値は喪失しました。それにともない、彼女は圧倒的な孤独感に苛まされるようになります。その結果として、余裕をなくしてしまった彼女は、よく言われるような「暴力性」を孕むようになっていったのだと考えられます。(それが許されるかどうかは別として・・・)
そして中学生になったハルヒは失ってしまったアイデンティティの獲得に動き出そうとします。それが校庭のグラウンドに落書きした「わたしはここにいる」のメッセージであり、「4年前の情報フレア」なのです。彼女は自分の存在を世界に訴えかけ、世界を改変し自分という存在の価値を世界に見出そうとします。(実際には情報フレアの直接的原因は別だと考えられます)
本来ならば、自己のアイデンティティの獲得のためには、自分自身が周囲の環境に順応していく姿勢が必要なんです。
しかしハルヒは自身のその無自覚な世界改変能力により、環境を自分に順応させる形でアイデンティティの獲得を目指します。心の奥底ではその環境に自分も認めてくれる存在は「いるはずがない」という幻想を抱きながら…。
つまり彼女はアイデンティティの喪失とともに、他者の排斥という心理状態に陥ってしまったがゆえにアイデンティティを自らの内に眠らせてしまうしかなくなってしまったのです。
(sleeping beauty)
ここでもう一つ注目しておきたいことはハルヒはあくまで”自己以外”に自己のアイデンティティを見つけてもらおうと動き出したのみで、自分自身でアイデンティティを探し求めたりはしません。つまり、この時点でのハルヒは”積極的な受動性”を備えていたと言えます。
そんな無自覚の袋小路に陥っていたハルヒはその精神状態のまま高校へ進学します。
このときの重要なターニングポイントはもちろん「キョンとの出会い」です。
彼がなぜハルヒにとって例外な存在であるかの説明は今は省略しますが、とにかくハルヒは彼にとても大きな興味を抱くようになります。
これによりハルヒは”能動的”にキョンの気を引くために”能動的”にキョンの気持ちを知ろうと努力し始めます。この時点からハルヒは自己以外の”他者”の視点を自らの内に無意識のうちに取り込むようになり、自らの暴力性を、キョンに嫌われたくないという一心で、克服しようとし始めます。
さらにハルヒは今後、「雪山症候群」や「分裂」において長門の心配をするようになっています。「他者の心配をすることができる=他者の心に寄り添える」ということですから、ここでも他者の視点を自己に取り入れているのです。
これらにより、古泉の言によれば、閉鎖空間の発生頻度は減少し、ハルヒの精神状態は落ち着いていきます。
ハルヒは自己を認めてくれるキョンに認めてもらいたいがために、彼女が唯一の存在でいられるSOS団を大切にしたいがために、無意識のうちに他者の視点で物事を考えられるよう成長していくのです。
自分を他者に認めて欲しければ、まず他者の視点に立ち、他者を認めていく姿勢が必要なんですよね…。