白んだ空、胸は明かず

Twitter:@siramune

一週間ぶりのアニソン

私はアニソンと呼ばれるものが好きです。

 

でも、きっかけは些細な事だったのですが、

少しアニソンから離れてみようと思い、

ここ一週間ほどアニソンを聴かない生活を過ごしていました。

 

しかし、今日、何気なくシャッフルしたら、アニソンがかかってしまいました。

かかったその曲は元々大好きな曲だったのですが、今日一週間ぶりにそれを聴き2秒で出てきた感想は、

 

「うるさい」

 

という感情でした。

 

ここ一週間普通の歌謡曲やJPOP、ロックばかり聴いていました。

だからか、アニソンのあの多種多様な音が混ざった曲はなんかうるさく感じたのです。

 

しかし、それでも聴きやすいアニソンもいっぱいありました。

それらは落ち着いた曲調で、使われている楽器の種類も他のアニソンより少ない。

だから聴きやすかったのかな…?

たぶん、こういう曲らが「アニソンっぽくないアニソン」の一種なんだと思います。

 

アニソンから少し離れただけでこんな感情を抱くとは思っていなかったです。

でも、アニソンが嫌いになったわけでもないし、アニソンを聴く生活に戻せばうるさく感じることもないと思います。

バーチャルな差別撤廃

巷では某感動系超長尺番組の話題で盛り上がっていますが、

その番組を全く見ていない人間が私です。

まあ、見たくない理由は色々あるので省略します。

 

その番組のコンセプトはおそらく今年も、身体的弱者への理解の発信と差別撤廃だと思われます。

 

でも、私はこの世界から差別をゼロにすることは不可能だと考えています。

そういう人がいることを理解することはできる。

でも差別自体をなくすことはできないと思う。

 

「差別する」を「本来同等の他者を下位な存在と見做す」と言い換えるとします。

表面上のなぞっただけの理解をすれば「虐げたり」、「嘲笑する」ような「差別」は無くすことができると思います。

もちろん、助け合う精神は大切なことです。

 

しかし、某番組のように、「障がい者や病人を表舞台に出させて感動を生み出す装置にする」という「差別」は単純な理解だけではなくなりません。

「憐れむ」や「可哀そう」という感情の奥底には、「対象を下位の存在と見做す」という「差別」が含まれています。

 

かつての私がそうでした。

あの番組を見て、感動してしまう自分がいる。

(そういう構成にしているせいもあるが、)やはり差別してしまう。

だからテレビで受動的に見るような理解だけでは差別はなくせない。

 

本当に必要な理解は、障がい者も難病を抱えている人も健常者と何ら変わりないという理解なんだと思っています。

だから、障がい者や難病人が健常者と同じようなことをしていても、奇異の眼で見て、感動する必要はないのではないか。

そう考えています。

 

しかし、たぶんこれは現実的なものではない。

人間の脳はそんなにうまくできていないから。

障がい者や病人の視覚に与えるショックは健常者の想像を超えてくるから。

障がい者や難病人が健常者と同じだって、”全”健常者にはきっと理解できない。

どうしても身体的弱者である彼らを特別扱いして、憐れんでしまう。

だから、きっと、差別撤廃はバーチャルなものでしかありえない。

 

 

でもこれはあくまで現実世界(リアル)でのお話です。

ネット上なら違う。

ネットという、「文字のみ」で意思疎通でき、視覚的なショックのない世界なら、健常者が身体的弱者を奇異の眼で見ることはありません。

だから私は、差別のないユートピアがあるとすればそれはネット上にあると考えています。

 

ネットというバーチャルな世界のみに。

 

当ブログについて

読者の皆さま、そしてツイッターのリンクから読んでくださっているフォロワーの皆さま、いつもこのブログを読んでくださりありがとうございます。

そして、この記事が初めてだよ!という方も覗きに来ていただきありがとうございます。

今回はこのブログについて少しだけ書こうと思います。

 

私の記事をいくつか読んだことのある方ならお分かりでしょうが、私のブログはとても無機質です。真っ黒な文字だけで、効果はほとんど使用していません。

これはワザとそうしてあります。

なぜなら、このブログを設立した目的が頭に浮かんだことを書き殴ろうと思ったからだからです。

なので、特に洒落たデザインをする気はありませんし、純粋に文章だけで伝えたいと考えています。

 

また、書く内容も定まっておりません。

万人ウケするようなことを書くこともあれば、一部の層にしか伝わらないことを書くこともあります。

 

伝わりにくい表現や構成なこともあるかと思いますが、ひとえに私の国語力不足です。すみません。

と、まぁそんなことで、これからもよろしくお願いします。

 

 

身体に刻まれた記憶

受験生時代、「五感を使って勉強するんだ!」と予備校の講師に何度も言われました。

しかしその当時は、視覚と触覚、聴覚の3つしか使っていませんでした。

私には味覚と嗅覚を使って勉強することはできなかったのです。

 

でも、日常生活の中なら、確かに五感を駆使して我々人間は記憶を保存している。

 

中学生の頃、部活の試合前日に聴いていた曲を聴けば自然とあの頃の情熱を思い出せる。昔好きだった人がよく聴いていた曲を聴けば、その人を否応なしに思い出してしまう。

 

とある路地裏で形容しがたい特有の匂いを嗅げば、その匂いを嗅いだことのある別の場所を思い出せる。かつて近くに居た人の匂いに似た匂いを嗅げば、その人が脳裏をよぎる。

 

特に、触覚に残された記憶はとても切なくて痛い。
触れられた感覚が、触れた感覚があの人の記憶を呼び起こし、身を切り裂く。

 

 

そんな風に、あらゆる感覚に記憶が保存される。

手が、耳が、目が、口が、鼻が、記憶を保存している。

 

身体に痛いほど刻まれた記憶は消えることはない。

 

 

 

選択は常に痛みを伴う

人生において、何か選択をしなければならないときがあります。

現在、私はその分岐点に立っていると考えられます。

 

ひとつは、誰も傷付けない安全な道。

もうひとつは、傷付く可能性を孕んでいるものの、少し足を踏み入れてしまった諸刃の道。

 

どっちが正しいのか、どっちを選べば幸せになれるのかなんてわからない。

(うまくいけば後者、そうでなければ前者の方が幸せだとは思うが)

 

どっちを選んでも失うものが出てくる。

選択は常に痛みを伴うから。

その痛みに耐えられるだけの勇気が欲しい。

とてもとてもツライ

今日はとてもツライことがありました。

詳細は省きますが、もう辛すぎて感情が消失しました。

でも、それなのに、そんな時なのに、「頭と心は違うんだなぁ」なんて冷静に自己分析している自分がいました。

どうしたら、この現状が良くなるのか、全くわかりません。

どうしたら良いんだろう…?

何が正解なのかわからない。

それが人生なのか。

 

本物の自分は何処に

某氏のブログを読み、「あぁ…そういえば…」と思い出したことがあったので、この記事を書くことに決めました。

嘘に嘘を重ね、本物の自分が何処にいるのか分からなくなっていた高校生のときにこのテーマについて考えたことがあります。

そのため、記事の内容のほとんどが当時の考えをそのまま書いたものとなります。

 

 

田舎で育ったため、中学校までは同級生がみんな小学校からずっと一緒!みたいな環境で過ごしていました。

そのため中学校までは、私の根っこから知っているような人ばかりですので、周囲の私に対するイメージも豊富で柔軟に変化するようなものでした。要するに、ほとんど嘘偽りなく過ごすことができていました。

 

しかし、顔見知りのいない高校に入ると、状況は一変しました。

入学当初不安で、周りの人間に見捨てられたりしないよう真面目に努めていた私は周りから「優等生」というイメージを抱かれました。

「〇〇君は真面目だから〜」とか「〇〇君はそんな馬鹿みたいなのは嫌いだよね?」とかそんなことを言われたこともあったと記憶しています。

そんな周りの印象を歪め、嫌われてしまうことを恐れた私はその「優等生」のイメージに沿った生き方をし始めました。

だから、3年間の高校生活の中で、(少なくとも人目につくような場所では)、素直な自分というものを見せたことはないと思います。

(自業自得でもあるのですがね…)

 

そして家庭内でも、そんなに素直な自分では居られないのが私の環境でした。

説明は省きますが、

やっぱり親の私に持つイメージを崩壊させないように努めていました。

 

他にも自分の持つ「仮面」はいくつかありました。

「優等生としての仮面」と「家庭内での仮面」の他に、「いつも遊ぶメンバーの中での仮面」と「ネット上での仮面」があったと思います。

この中で素直な私に一番近いのは「いつも遊ぶメンバーの中での仮面」でしょうか。

これは中学生以来の仲の良い男子4人ほどのグループですが、ここで息をしているときは苦しくありません。

(20歳を超えた現在も続いている集まりで、とても気楽です)

 

そしてブログのテーマに戻るのですが、高校生の時に、その仲良しグループのある人物に、以上の理由から「本物の自分が何処にいるのか分からない」と打ち明けたことがありました。

そうすると、彼は逡巡することなく、次のように言い放ちました。

 

「全部自分だろ?」

 

たとえ、何らかのコミュニティに応じた複数のペルソナを持っていたとしても、その仮面を被っている自分は自分であって、唯ひとりである。本物の自分なんてそんなに固定されたものじゃないでしょ?

そんなことを言いたかったのではないのかなと思います。

 

たぶん、この事に悩んでいた当時の私は複数のペルソナを被ることを恥ずかしく思い、どれか一つの確かなキャラクター(ペルソナとも言える)に自分を固定したかったのだと思います。

しかし彼にその言葉を言われてからは、複数のペルソナを被っていたとしても、それらを被っている私は唯ひとりで、複数のペルソナを持つことも含めて「"本物の"自分」なんだと意識を改めるようになりました。

(自分のキャラクターを外にではなく、内に求め始めたとも言える気がします)

 

まるで言葉遊びのようですが、

「本物」という言葉に対する意識を変えただけで、悩みは吹き飛びました。

 

ペルソナまでひっくるめて、全てが私を構成している。

だから、所属するコミュニティが変わって、ペルソナが変われば本物の自分も流動的に変わっていく。

そんな風に捉えるようになりました。

 

 

でも今では、何処かに確かな「"本物の"自分」が存在すると思っています。

流動的ではない、自分の根幹を成す「本当の"本当の"自分」が。

それが何処にあって、どんなものなのかは20歳を過ぎた今でも分かりませんが、それをいつか見つけられたらなと考えています。