白んだ空、胸は明かず

Twitter:@siramune

身体に刻まれた記憶

受験生時代、「五感を使って勉強するんだ!」と予備校の講師に何度も言われました。

しかしその当時は、視覚と触覚、聴覚の3つしか使っていませんでした。

私には味覚と嗅覚を使って勉強することはできなかったのです。

 

でも、日常生活の中なら、確かに五感を駆使して我々人間は記憶を保存している。

 

中学生の頃、部活の試合前日に聴いていた曲を聴けば自然とあの頃の情熱を思い出せる。昔好きだった人がよく聴いていた曲を聴けば、その人を否応なしに思い出してしまう。

 

とある路地裏で形容しがたい特有の匂いを嗅げば、その匂いを嗅いだことのある別の場所を思い出せる。かつて近くに居た人の匂いに似た匂いを嗅げば、その人が脳裏をよぎる。

 

特に、触覚に残された記憶はとても切なくて痛い。
触れられた感覚が、触れた感覚があの人の記憶を呼び起こし、身を切り裂く。

 

 

そんな風に、あらゆる感覚に記憶が保存される。

手が、耳が、目が、口が、鼻が、記憶を保存している。

 

身体に痛いほど刻まれた記憶は消えることはない。

 

 

 

選択は常に痛みを伴う

人生において、何か選択をしなければならないときがあります。

現在、私はその分岐点に立っていると考えられます。

 

ひとつは、誰も傷付けない安全な道。

もうひとつは、傷付く可能性を孕んでいるものの、少し足を踏み入れてしまった諸刃の道。

 

どっちが正しいのか、どっちを選べば幸せになれるのかなんてわからない。

(うまくいけば後者、そうでなければ前者の方が幸せだとは思うが)

 

どっちを選んでも失うものが出てくる。

選択は常に痛みを伴うから。

その痛みに耐えられるだけの勇気が欲しい。

とてもとてもツライ

今日はとてもツライことがありました。

詳細は省きますが、もう辛すぎて感情が消失しました。

でも、それなのに、そんな時なのに、「頭と心は違うんだなぁ」なんて冷静に自己分析している自分がいました。

どうしたら、この現状が良くなるのか、全くわかりません。

どうしたら良いんだろう…?

何が正解なのかわからない。

それが人生なのか。

 

本物の自分は何処に

某氏のブログを読み、「あぁ…そういえば…」と思い出したことがあったので、この記事を書くことに決めました。

嘘に嘘を重ね、本物の自分が何処にいるのか分からなくなっていた高校生のときにこのテーマについて考えたことがあります。

そのため、記事の内容のほとんどが当時の考えをそのまま書いたものとなります。

 

 

田舎で育ったため、中学校までは同級生がみんな小学校からずっと一緒!みたいな環境で過ごしていました。

そのため中学校までは、私の根っこから知っているような人ばかりですので、周囲の私に対するイメージも豊富で柔軟に変化するようなものでした。要するに、ほとんど嘘偽りなく過ごすことができていました。

 

しかし、顔見知りのいない高校に入ると、状況は一変しました。

入学当初不安で、周りの人間に見捨てられたりしないよう真面目に努めていた私は周りから「優等生」というイメージを抱かれました。

「〇〇君は真面目だから〜」とか「〇〇君はそんな馬鹿みたいなのは嫌いだよね?」とかそんなことを言われたこともあったと記憶しています。

そんな周りの印象を歪め、嫌われてしまうことを恐れた私はその「優等生」のイメージに沿った生き方をし始めました。

だから、3年間の高校生活の中で、(少なくとも人目につくような場所では)、素直な自分というものを見せたことはないと思います。

(自業自得でもあるのですがね…)

 

そして家庭内でも、そんなに素直な自分では居られないのが私の環境でした。

説明は省きますが、

やっぱり親の私に持つイメージを崩壊させないように努めていました。

 

他にも自分の持つ「仮面」はいくつかありました。

「優等生としての仮面」と「家庭内での仮面」の他に、「いつも遊ぶメンバーの中での仮面」と「ネット上での仮面」があったと思います。

この中で素直な私に一番近いのは「いつも遊ぶメンバーの中での仮面」でしょうか。

これは中学生以来の仲の良い男子4人ほどのグループですが、ここで息をしているときは苦しくありません。

(20歳を超えた現在も続いている集まりで、とても気楽です)

 

そしてブログのテーマに戻るのですが、高校生の時に、その仲良しグループのある人物に、以上の理由から「本物の自分が何処にいるのか分からない」と打ち明けたことがありました。

そうすると、彼は逡巡することなく、次のように言い放ちました。

 

「全部自分だろ?」

 

たとえ、何らかのコミュニティに応じた複数のペルソナを持っていたとしても、その仮面を被っている自分は自分であって、唯ひとりである。本物の自分なんてそんなに固定されたものじゃないでしょ?

そんなことを言いたかったのではないのかなと思います。

 

たぶん、この事に悩んでいた当時の私は複数のペルソナを被ることを恥ずかしく思い、どれか一つの確かなキャラクター(ペルソナとも言える)に自分を固定したかったのだと思います。

しかし彼にその言葉を言われてからは、複数のペルソナを被っていたとしても、それらを被っている私は唯ひとりで、複数のペルソナを持つことも含めて「"本物の"自分」なんだと意識を改めるようになりました。

(自分のキャラクターを外にではなく、内に求め始めたとも言える気がします)

 

まるで言葉遊びのようですが、

「本物」という言葉に対する意識を変えただけで、悩みは吹き飛びました。

 

ペルソナまでひっくるめて、全てが私を構成している。

だから、所属するコミュニティが変わって、ペルソナが変われば本物の自分も流動的に変わっていく。

そんな風に捉えるようになりました。

 

 

でも今では、何処かに確かな「"本物の"自分」が存在すると思っています。

流動的ではない、自分の根幹を成す「本当の"本当の"自分」が。

それが何処にあって、どんなものなのかは20歳を過ぎた今でも分かりませんが、それをいつか見つけられたらなと考えています。

後悔して、それから・・・

現在、PS4で「ライフイズストレンジ」というゲームをプレイしています。

このゲームの一番の魅力は主人公の女の子がタイムリープをして過去を変えていくことにあると思われます。

私たちプレイヤーは彼女の能力を駆使して、どの道が最善なのか選択しながら物語を進めていきます。

しかしこの「過去を改変する能力」を使用するときは本当につらいです。

以前、「Steins;Gate」という作品をプレイしたときもそうだったのですが(Steins;Gateタイムリープを主軸にした作品)、過去を改変するときはどうしても改変する前の世界の未来が気になってしまいます。

あと、バタフライエフェクトという言葉がある通り、その時は良かれと思って起こした行動でも後になって「やらなきゃよかった」なんてこともあります。

 

現実でもそうです。

「あのときこうしていればよかったのかな」、「この選択をしていれば今は違ったのかな」なんて考えることは少なくはない回数であることです。

 

でも現実はゲームと違って、過去の選択を取り消したりすることはできません。

また、どっちの選択が良かったのか分からないのも現実です。

エヴェレットの「多世界解釈」に則れば、この世界はただ一本の線ではなく、無数の線の束であると言えます。

しかしそのうち、現実で生きている私が観測することのできる世界は一続きの、ただ一本の世界です。

だから、過去を振り返って後悔するだけではどうにもならない。

 

後悔して、それから得られたものを今を生きる糧にしない限りは・・・。

 

P.S.

PS4ソフトである「ライフイズストレンジ」は現在(9月1日まで)、PlayStationPlus会員であれば無料でプレイすることが可能です。

ですので、もしもまだプレイしていないのなら、この機会にプレイすることをお勧めします。

久しぶりにストーリーの良い作品に出会えました。

また、「Steins;Gate」(略称シュタゲ)も私に強い影響を与えた作品の中の一つです。

どちらも時空を超えて生きていく中での主人公の葛藤を描いた素晴らしい作品となっています。

それでは。

夜の魔力

夜は物静かですし、臆面なくお酒を飲もうという気持ちになれて好きです。

でも夜になるとあれこれ思案して、不安になったりしてしまいます。

とにかく夜、それも21時過ぎとか、深夜にほど近くなった時間帯に思いめぐらすことが多い気がします。

はっきりとした原因は分からないけど、

人や車の通りが少なくなって静かな中で作業できるとか、

独りでいることが多いからとか、

気障なことを言えばお天道様が見えないからとか(笑)

色んな要因が絡まっているんじゃないかな。

 

だから、忙しい昼間には考えられないことを夜には想起してしまう。

そして一日の疲れやお酒の力で、そんな考えてしまったことをツイッターとかで吐露してしまう。

 

でも、そうやって吐露することで気持ちが楽になります。

誰かが反応してくれなくても、考えを言葉に変え、発信することでリラックスできているのだと思います。

ただ朝になると身悶えするようなことまで呟いていて赤面しますが(笑)

 

今日もまた、そんな夜の素敵な魔力に魅せられてこの記事を綴りました。

 

やさ(優)しさ

「やさしいね」って何度も言われてきました。

現実でも、ネット上でも言われて、何度言われたかなんてもはやわかりません。

まあ、ここまでくると、ひょっとすると自分は比較的優しい人なのかな・・・?なんて自惚れてしまったりします。

でも、やっぱり自分で自分のことを優しい人ってあまり思えないんですよね。

 

私はたぶん、怒ること・キレることがなかなかできないだけなんだと思います。

だって怒るのはエネルギーをかなり使うし、その後が怖い。

関係が拗れてしまわないか、とか色んなことを考えてしまいます。

だから相手に対して何らかの不快な感情を抱いたとしても、

行動や言葉で示すことがあまりできない。

私はただ相手の行動を受け入れるだけ。

それがおかしくても、自分が我慢してしまう。

我慢の限界が来ると、その人に対して注意すらしなくなる。

ただそれしかできないんですよね。

 

私の思い描く「優しい人」は相手のことを思いやって、怒ることができる人なんです。

心から優しい人は相手を心から心配できるから、怒れるのだと思います。

 

「優しい」って言葉には「優」って文字を当てます。

だから、やさしいと同時に「優れた人」でもあると考えています。

そして、そんな「優しい人」は心が優れているから怒ることができる。

そんな風に考えています。

 

 

 

でも、そんな自分にも「やさしい」って言ってくれる人がいる。

この状況が嫌いというわけでは決してありません。

むしろ、嬉しいです。

 

だから、こんな自分に「やさしいね」って言葉をかけてくれる有難い人たちに感謝をし、

明日も「優しい人」を目指して生きていきたいです。