白んだ空、胸は明かず

Twitter:@siramune

人は物語を常に追い求めている

私は小説や映画、ゲームでも、しっかりした”ストーリー”が見いだせる作品が好きです。

どんなに文章力や演技力、システムが良くても物語が面白くないと興味をそそられません。

だから私は新たな面白い物語を見つけようと年中色んな作品をサーチしています。

(と言っても、限られた時間の中で実際に触れられる作品はわずかですが…)

 

そこで、私の周囲の人たちに視野を広げてみると、その人たちの趣味が何にせよ、そこにはやはり”物語”の存在を感じ取れます。

音楽には、その曲ひとつひとつに固有のストーリーがある。

その曲の世界観や、作成に至るまでの人の軌跡がある。

絵画にも同じことが言える。

骨董品や古典にも似たようなことが言える。

そう考えると、人はみんな物語を常に追い求めているのだと思えてきます。

 

物語は言わば、人の生きた痕跡を綴ったようなもの。

(その人が実在するかどうかはともかくとして)

 

人生は人の生きた道、痕跡。

だから、自分の人生に面白くて素晴らしい物語を見いだせたら、

きっとそれは極上の幸福なんだろうな。

明晰夢を久しぶりに見た

この前、久しぶりに明晰夢を見ました。

何年も前からネットで話題になっていますし、先日はツイッターでも「明晰夢を見ることができる薬」に関するツイートが拡散されていたので、知らない方の方が少ないかと思いますが、念のため明晰夢とはなんぞやということをはじめに書きます。

 

Wikipediaによると、

「睡眠中に見る夢うち、自分で夢であると自覚しながら見ている夢のことである。」

と言われています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%B0%E5%A4%A2

 

この通りで、夢の中で「これは夢だ」と思えるとき、人は明晰夢を見ていると言います。

 

話は私の明晰夢に戻ります。

私が思うに、私の明晰夢は2種類あります。

1つは、夢の中で夢を見ていると自覚するもののそれ以上はなにもできない夢。

もう1つ、自覚し、現実と同じような感覚で頭や体を使える夢。

この2つです。

私は前者の夢は、これまで数えきれないほど体験しています。

だから、今更そんなことでは驚かなくなってしまいました。

しかし、今回見た明晰夢はあまりにも後者の明晰夢でした。

 

このタイプの明晰夢はなかなか見ることができません。

今回が2,3年ぶりでした。

 

そしてなにより、このタイプの明晰夢は本当に楽しい。

身体が自由に操れるのはもちろん、普通の夢よりも色や触感が現実とほぼ同じように体感できます。

今回見た夢は、巨大で豪華な宇宙船のなかを散策する夢でした。

現実ならありえない世界を自由に楽しむことができる。

これほどワクワクすることは滅多にありません。

終いには、「現実に帰りたくないな」なんて考えていました。

(もしも本当に帰れなかったら笑えませんが・・・汗)

 

それではまた。

 

P.S.

ブログの更新が滞っていましたが、特に理由はありません。

強いて言えば、「書く意欲がなかった」が理由です。

何らかのアクシデントにより更新できなかったわけではないので・・・。

一週間ぶりのアニソン

私はアニソンと呼ばれるものが好きです。

 

でも、きっかけは些細な事だったのですが、

少しアニソンから離れてみようと思い、

ここ一週間ほどアニソンを聴かない生活を過ごしていました。

 

しかし、今日、何気なくシャッフルしたら、アニソンがかかってしまいました。

かかったその曲は元々大好きな曲だったのですが、今日一週間ぶりにそれを聴き2秒で出てきた感想は、

 

「うるさい」

 

という感情でした。

 

ここ一週間普通の歌謡曲やJPOP、ロックばかり聴いていました。

だからか、アニソンのあの多種多様な音が混ざった曲はなんかうるさく感じたのです。

 

しかし、それでも聴きやすいアニソンもいっぱいありました。

それらは落ち着いた曲調で、使われている楽器の種類も他のアニソンより少ない。

だから聴きやすかったのかな…?

たぶん、こういう曲らが「アニソンっぽくないアニソン」の一種なんだと思います。

 

アニソンから少し離れただけでこんな感情を抱くとは思っていなかったです。

でも、アニソンが嫌いになったわけでもないし、アニソンを聴く生活に戻せばうるさく感じることもないと思います。

バーチャルな差別撤廃

巷では某感動系超長尺番組の話題で盛り上がっていますが、

その番組を全く見ていない人間が私です。

まあ、見たくない理由は色々あるので省略します。

 

その番組のコンセプトはおそらく今年も、身体的弱者への理解の発信と差別撤廃だと思われます。

 

でも、私はこの世界から差別をゼロにすることは不可能だと考えています。

そういう人がいることを理解することはできる。

でも差別自体をなくすことはできないと思う。

 

「差別する」を「本来同等の他者を下位な存在と見做す」と言い換えるとします。

表面上のなぞっただけの理解をすれば「虐げたり」、「嘲笑する」ような「差別」は無くすことができると思います。

もちろん、助け合う精神は大切なことです。

 

しかし、某番組のように、「障がい者や病人を表舞台に出させて感動を生み出す装置にする」という「差別」は単純な理解だけではなくなりません。

「憐れむ」や「可哀そう」という感情の奥底には、「対象を下位の存在と見做す」という「差別」が含まれています。

 

かつての私がそうでした。

あの番組を見て、感動してしまう自分がいる。

(そういう構成にしているせいもあるが、)やはり差別してしまう。

だからテレビで受動的に見るような理解だけでは差別はなくせない。

 

本当に必要な理解は、障がい者も難病を抱えている人も健常者と何ら変わりないという理解なんだと思っています。

だから、障がい者や難病人が健常者と同じようなことをしていても、奇異の眼で見て、感動する必要はないのではないか。

そう考えています。

 

しかし、たぶんこれは現実的なものではない。

人間の脳はそんなにうまくできていないから。

障がい者や病人の視覚に与えるショックは健常者の想像を超えてくるから。

障がい者や難病人が健常者と同じだって、”全”健常者にはきっと理解できない。

どうしても身体的弱者である彼らを特別扱いして、憐れんでしまう。

だから、きっと、差別撤廃はバーチャルなものでしかありえない。

 

 

でもこれはあくまで現実世界(リアル)でのお話です。

ネット上なら違う。

ネットという、「文字のみ」で意思疎通でき、視覚的なショックのない世界なら、健常者が身体的弱者を奇異の眼で見ることはありません。

だから私は、差別のないユートピアがあるとすればそれはネット上にあると考えています。

 

ネットというバーチャルな世界のみに。

 

当ブログについて

読者の皆さま、そしてツイッターのリンクから読んでくださっているフォロワーの皆さま、いつもこのブログを読んでくださりありがとうございます。

そして、この記事が初めてだよ!という方も覗きに来ていただきありがとうございます。

今回はこのブログについて少しだけ書こうと思います。

 

私の記事をいくつか読んだことのある方ならお分かりでしょうが、私のブログはとても無機質です。真っ黒な文字だけで、効果はほとんど使用していません。

これはワザとそうしてあります。

なぜなら、このブログを設立した目的が頭に浮かんだことを書き殴ろうと思ったからだからです。

なので、特に洒落たデザインをする気はありませんし、純粋に文章だけで伝えたいと考えています。

 

また、書く内容も定まっておりません。

万人ウケするようなことを書くこともあれば、一部の層にしか伝わらないことを書くこともあります。

 

伝わりにくい表現や構成なこともあるかと思いますが、ひとえに私の国語力不足です。すみません。

と、まぁそんなことで、これからもよろしくお願いします。

 

 

身体に刻まれた記憶

受験生時代、「五感を使って勉強するんだ!」と予備校の講師に何度も言われました。

しかしその当時は、視覚と触覚、聴覚の3つしか使っていませんでした。

私には味覚と嗅覚を使って勉強することはできなかったのです。

 

でも、日常生活の中なら、確かに五感を駆使して我々人間は記憶を保存している。

 

中学生の頃、部活の試合前日に聴いていた曲を聴けば自然とあの頃の情熱を思い出せる。昔好きだった人がよく聴いていた曲を聴けば、その人を否応なしに思い出してしまう。

 

とある路地裏で形容しがたい特有の匂いを嗅げば、その匂いを嗅いだことのある別の場所を思い出せる。かつて近くに居た人の匂いに似た匂いを嗅げば、その人が脳裏をよぎる。

 

特に、触覚に残された記憶はとても切なくて痛い。
触れられた感覚が、触れた感覚があの人の記憶を呼び起こし、身を切り裂く。

 

 

そんな風に、あらゆる感覚に記憶が保存される。

手が、耳が、目が、口が、鼻が、記憶を保存している。

 

身体に痛いほど刻まれた記憶は消えることはない。

 

 

 

選択は常に痛みを伴う

人生において、何か選択をしなければならないときがあります。

現在、私はその分岐点に立っていると考えられます。

 

ひとつは、誰も傷付けない安全な道。

もうひとつは、傷付く可能性を孕んでいるものの、少し足を踏み入れてしまった諸刃の道。

 

どっちが正しいのか、どっちを選べば幸せになれるのかなんてわからない。

(うまくいけば後者、そうでなければ前者の方が幸せだとは思うが)

 

どっちを選んでも失うものが出てくる。

選択は常に痛みを伴うから。

その痛みに耐えられるだけの勇気が欲しい。